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【会員コラム】間忠雄(6)倫理的反出生主義の普及を願って ~苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~(6)

執筆者の写真: 間忠雄|Tadao Hazama間忠雄|Tadao Hazama


 
寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

正会員


41歳のプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。

 

「出生の停止」を訴える倫理的反出生主義の主張の是非をめぐる議論は、およそあらゆる建設的議論と同様に、議論の前提となる共通の基盤を絶えず確認し、相互に認識を深め、あるいは必要に応じて修正を迫られるものでなければならないだろう。

なかなか理解し合えない場合にも粘り強く、議論に参加する全員が同じ一つの現実を共有しているという事実から何度でも常にやり直す他はない。

そこで、「出生の停止」という倫理的反出生主義の主張に行きつくまでの経緯をいま一度要約すればおよそ次の通りである。


(イ)われわれ人間の生きる現実においては常に、一部の人間が耐え難いほどの苦痛にさらされている。

→(ロ)われわれ人間は同胞の苦痛を取り除き、予防し、終わらせる倫理的責任を負っている。

→(ハ)現時点の人間の能力では「出生の停止」を措いて他に同胞の苦痛を予防し、やがて終止符を打つことになる、という見通しを持つことのできる手段がない。

→(ニ)われわれ人間が共同でその倫理的責任を果たしていくためには、「出生の停止」をいますぐ実行しなければならない。


現実認識(イ)と人間理解(ロ)を共通の基盤としない限り、建設的な議論は望むべくもない。

特に(ロ)を否定する立場は「優生学思想」を容認することになることを理解しなければならない(私の住む自治体の市議会だよりに、ある議員が市議会の討論において、「自身の困窮を増税や逆進性のせいにするのは、まさに甘えの極致」、「貧窮の境遇から救いを求めて差し出された、か弱き弱者の手を優しく握り返してやるとでも思っているのでしょうか。冗談ではありません。反論も抵抗もできない社会的・経済的弱者に対しても、甘やかすことなく、冷徹に、無慈悲に、容赦なく、徹底的に収奪することこそが、効率的な税収確保のための最短距離であり、最善手」などと発言したことが伝えられていた。倫理的反出生主義はこの議員の立っているところに立つことはできない)。

現実認識(イ)と人間理解(ロ)を併せて、「人間性擁護のための基盤」とでも呼んでおこう。

この基盤に立って、議論を進めたい。


人間性擁護のための基盤に立つ人々で倫理的反出生主義の主張に受け入れられないものがあるとすれば、それはどこであろうか。

議論はわれわれ倫理的反出生主義者にとって、その点を理解するよう努めるものでなければならない。

人々との対話を通して、多くの人が不安に駆られるのは、苦痛の「予防」と「終止符」を最優先させた場合に必然的に伴う「将来の人間不在」であることに注目する必要がある。

「存在」と「不在」、「有」と「無」は人間の倫理的責任領域を超えて、争われない最低奥基盤であるかの如くである。


また、倫理的反出生主義の主張(ハ)と(二)が、「予防」と「終止符」には貢献しても、現実存在する人間同胞の苦痛の除去には何らの貢献も成し得ないことに共感を得られない一因がある。

人々が望んでいるのは、現に存在する人間の苦痛の除去なのである。


これらのことを理解した上でもわれわれはなお、出生の停止を訴え続けていかなければならない。

それは、人間が人間であるために、現に存在する人間同胞の苦痛の除去というささやかな努力を決して諦めず、全力を鼓舞するために必要なことだからである。

やがて人間全体の苦痛はすべて拭い去られる、という希望がなければ、われわれの多くは、人間に共同の倫理的責任をいとも簡単に放棄してしまうからである。

何をやっても所詮無駄だ、現実は変わらない、せめて自分と自分に身近な人々の苦痛の予防と除去に努めるしかない。といった諦めの誘惑から、われわれ倫理的反出生主義者さえも決して自由ではない。

「倫理的責任」放棄の誘惑に抗して最後まで責任を果たしていくことを望むならば、ぜひとも「希望」が必要ではないか。

この希望こそが、倫理的責任の完遂というひとつの目標に向かう人々の立つ共通の基盤となるのである。


そこで問題となるのは、(ハ)を巡る認識、人間の能力にはたして責任を果たすことが期待できるのか、ということになる。

倫理的反出生主義は、人類の歴史に訴え、もはや先延ばしにすることはできないと主張する。

人間の進歩に期待していつまでも待ち続けるのではなく、現存する人間には不十分ながらもできる限りの手を尽くしつつ、人間の苦難の予防と終焉のためには「出生の停止」が不可欠である、と訴える。

出生の停止によりやがて苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなることが期待できればこそ、不十分ながらも全力を振るって、現存する人間同胞の苦痛除去に当たることができるのではないか。


人間の不在に対する人々の否定的な印象についても、無下に退けることはできない。

しかし一方で、すべての個人はやがて「死」ななければならない、という現実にも目を向ける必要がある。

「死」の現実は冷酷無慈悲である。

死ぬことは決して楽になることとイコールではない。

死を前にしてわれわれは皆苦痛と恐怖を通らなければならない。

むしろ、人間不在に対する否定的印象から倫理的反出生主義の主張に抵抗を感じる人々には、この「死」の現実ゆえに、出生の停止の合理性を訴えたいのである。

不可避的な死を体験させることになる以上、われわれの意志で、子供を産みだしてはならない。


人間の経験的な認識だけでは測ることのできない希望の根拠については、それがキリスト信仰にあることはすでに提示してきた通りである。

そこでは「人間の不在」などすでに克服されてしまっている。

人間の意志によらない「新しい出生」が、万物救済の歴史においてすでに始まっているからである(ヨハネによる福音書3章1-15参照)。


前回述べた通り、ここで「ヴィーガニズム」との関連についても言及しておきたい。


私は、キリスト教信仰に基づく倫理的な反出生主義を志向し続けて来たので、人間以外の動物たちの苦痛を人間自身の苦痛とは同列には置けなかった。

しかし、両者は全く別の問題だとは考えない。

人間の倫理的責任は、まず第一に共なる人間同胞に向けられ、次いで他の被造物にも向けられていることが聖書の示す人間理解である。

動物を大切にすることは倫理的に正しいが、同胞を大切にすることの方がはるかに優先的である。

同胞を助ける能力において微力なわれわれに動物の苦痛をすべて取り除くことはできない。

必要以上に苦しめないこと、為し得る限りの手を尽くすことは求められていても、それが同胞の救援を超えたり、あるいは並ぶほどの地位を与えることはできない。


しかしキリスト教信仰における救済像は、人間の救済を第一としつつ、被造物全体に及んでいることが次の聖書箇所から容易に理解されるだろう。

それは紀元前6世紀のバビロン捕囚によるユダ王国滅亡の歴史的出来事のさなかに、イスラエルの預言者イザヤを通して示された救済像である。

代々のキリスト教会は、これをイエス・キリストについての預言である、と理解してきた。

かれはわれわれ人間の救済者であるばかりでなく、万物の救済者でもある。


『エッサイの株よりひとつの芽出で、その根よりひとつの枝生えて実を結ばん。

その上に主の霊留まらん。これ知恵聡明の霊、謀略才能の霊、知識の霊、主を畏るるの霊なり。

かれは主を畏るるを以て楽しみとし、

また目見るところによりて裁きをなさず、耳聞くところによりて定めをなさず、

正義を以て貧しき者のために裁き、公平を以て国のうちの卑しき者のために定めをなし、

その口の杖を以て国を打ち、その口唇の息吹を以て悪しき者をば誅すべし。

正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯とならん。

狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏し、仔牛、雄獅子、肥えたる獣、共におりて小さき童に導かれ、

牝牛と熊とは食い物を共にし、熊の子と牛の子と共に伏し、獅子は牛のごとくに藁を食らい、

乳飲み子は毒蛇の洞に戯れ、乳離れの子は手を蝮の穴に入れん。

かくてわが聖き山のいずこにても害うことなく破ることなからん。

そは、水の海を覆えるがごとく、主を知るの知識地に満つべければなり』(イザヤ書11章1-9)


新約聖書の時代にも、最大の異邦人伝道者、使徒パウロが次のように言っている。


『われ思うに、今のときの苦しみは、われらの上に顕われんとする栄光に比ぶるに足らず。それ造られたるものは切に慕いて神の子たちの現れん事を待つ。造られたるものの虚しきに服せしは、己が願いによるにあらず。服せしめ給いし者によるなり。されどなお造られたるものにも滅びの僕たる状(さま)より解かれて、神の子たちの光栄の自由に入る望みは残れり。われらは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、共に苦しむことを。』(ローマ書8章18-22)


苦難の積極的な意義を認めつつ、主イエス・キリストによる人間の全き救済がすべての被造物に待ち望まれていること、人間の罪と死と苦難のゆえに他の被造物も苦難の虚無に服していること、それゆえ、キリストの人間救済が全被造物の救済でもあることが語られている。


このような確かな希望に支えられて初めて、われわれは人間のみならず、動物をはじめ宇宙全体に及ぶ壮大な救済について失望することなく、目標に向かって持てる限りの全力を傾注することができる。

歴史を一貫してわれわれ人間の経験的認識と良心に基づく基盤を最も深いところで支え続けているものこそ、われわれの経験を遥かに超えた、このキリスト信仰による希望に他ならない。



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