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  • 執筆者の写真間忠雄|Tadao Hazama

【会員コラム】間忠雄(2)倫理的反出生主義の普及を願って ~苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなるために~(2)

 
寄稿者

間忠雄(はざま・ただお)

会員番号:50

正会員


41歳のプロテスタント信徒で、埼玉県在住。

れいわ新撰組、社民党、立憲民主党を支持。

疫病を機に反出生主義を選択するが、ヴィーガニズムには確信を持っていない。

好きなキャラクターはタンタン。

 

倫理的反出生主義の主張は、「すべての出生を停止せよ、それから、すべての人間の苦痛の除去を最優先させよ」というものでなければならないのではないだろうか。

「出生の停止」は「苦しむ人間存在の終焉」のための唯一確実な手段として承認されたならば、倫理的反出生主義の主張への賛否はつまるところ、「苦しむ人間存在の終焉」への同意か不同意かのいずれでしかないということになる。


敢えて不同意を選択する者は、自身の苦痛を受け入れる覚悟ばかりか、他者の苦痛をも正当化する覚悟が要求されることになるだろう。

しかし他者の苦痛を正当化するに足る一体どんな理由があるというのだろうか。


さて、倫理的反出生主義の主張に同意できないとすれば、他者の苦痛を正当化するか、さもなければ、それほどの窮地に陥る一歩手前の、「出生の停止」が「苦しむ人間存在の終焉」のための「唯一」にして「確実」な手段であることを否定しなければならない。


まず一歩手前の可能性を検証しよう。

「確実性」はすでに述べた通りである。

「唯一性」を否定するためには、反例、すなわち代替案を示さなければならない。

苦しむ人間存在に対する救援は最大限実施されなければならない。

それは倫理的反出生主義の主張の中にも含まれている。

世代の継承を続けながら苦しむ人間存在がもはや誰もいなくなることを一体誰が実現可能と考えることが出来るだろうか。

苦しむ人間存在の終焉のための代替案が見つかったなら、倫理的反出生主義者は喜んでいつでも自説を放棄することだろう。


さてより実際的には、驚くべきことに究極的な不同意、すなわち、苦しむ人間存在の継続を正当化してまでも出生を容認する(むしろ当為・義務とする)立場があることである。

その代表格としてH・ヨナスの出生主義が挙げられる。


倫理的反出生主義が「苦しむ人間存在の終焉」を至上命題ないし基本公理とするのに対し、ヨナスの出生主義は「応答責任能力を持つ人間存在の継続」を至上命題ないし基本公理とする。

公理である以上これらは証明を必要としない。

ひとおのおのはいずれを公理ないし至上命題として出発するのか、ということだけが問われることになるだろう。

ヨナスは、倫理的反出生主義の問い、すなわち「苦しむ人間存在の継続を正当化するような一体どんな理由があるというのか」との問いに、「応答責任を果たすために」という答えをもってする。


ヨナスによれば「応答責任が人間存在によって果たされること」は、「苦しむ人間存在の継続」を正当化するに足る理由なのである。

そのような「応答責任」とは一体何か?


ヨナスによれば、それは「実存を与えられたことそれ自体に対して、それを可能にしたものに感謝する義務」である。

ヨナスは言う、「なぜ無ではなく何かが存在するのか――この解答不可能な形而上学的問いは、実在それ自体を自明の公理と想定し、その有限性を実在に降りかかった不名誉ないしは権利の削減と想定する態度から、私たちを守ってくれるだろう。むしろ、そもそも何かが実在するという事実が神秘中の神秘なのである」。


ユダヤ教ヘブル語聖書創世記における創造主に対する信仰が表白されていることは疑いの余地がない。


苦しむ人間存在の終焉を拒否する理由があるとすれば、それはもはや宗教的理由によるしかない。

ユダヤ教をルーツとするキリスト教においても倫理的反出生主義の主張はややもすると、現実存在する世界と身体を否定する「グノーシス主義」(キリスト教においては異端とされる)呼ばわりされかねないのであるが、キリスト教にはユダヤ教とはまるで異なる人間救済の理解がある。

確かにキリスト教におけるカルビニズムの「選びの教理」、すなわち「すべては神の栄光のために」、を至上命題として出発するならば、ユダヤ教と同様に苦しむ人間存在の継続は正当化されるかもしれない。


ところが、ユダヤ教と決定的に異なるキリスト教の「三位一体論」に基づく神の御業としての人間救済の理解においては、救済完成の時を、「終末」、物質的世界の存在と歴史の「終焉」に見ていることから、人間同胞に対する倫理的責任の中に「終末を来たらせる責任」が含まれ得るのである。

ユダヤ教は必然的に「出生主義」であるが、キリスト教は出生主義でも反出生主義でもなく、敢えて言えば、「新出生主義」(ヨハネ伝3:3以下参照)ということになる。


それゆえ、キリスト教的反出生主義というのはあり得るし、勿論無神論的反出生主義もあるわけだが、ヨナスの公理が宗教的で、倫理的反出生主義の公理が無神論的であるということはできない。

「苦しむ人間存在の終焉」か、それとも「応答責任能力を持つ人間存在の継続」か、ひとおのおのは、いずれの公理をか選択して出発しなければならないのである。

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