無生殖主義
無生殖主義は、苦痛を感じる能力(以下『苦感能力』とします)を持つものを直接的にも間接的にも作ってはならないとする倫理学上の立場です。
苦感能力を持つものを直接的に作る手段としては主に生殖、間接的に作る手段としては主に動物製品を買うことで動物の強制繁殖を経済的に支援することが挙げられます。
無生殖主義は「反出生主義」とも呼ばれますが、こちらで解説する理由で、本会では反出生主義という名称の使用を避けています。
無生殖主義を擁護する議論
無生殖主義を擁護する議論には、以下のようなものがあります。

リスク
苦感能力を持つものは、一度作られてしまうと、様々な仕方で苦痛を経験するリスクに晒されます。
例えばヒトの場合、空腹、怪我、病気、友人や家族の死、事件や事故の被害、経済的な不安など、苦痛の原因となり得る物事は枚挙にいとまがありません。

同意の不在
苦感能力を持つものは、自らが作られる前には存在しません。
そのため、リスクの説明を受けた上で存在開始に同意したり 拒否したりする機会を与えられることなく、強制的にその存在を開始されてしまいます。

他者への危害
苦感能力を持つものは、自分以外の苦感能力を持つものに苦痛をもたらす可能性があります。
例えばヒトの場合、同じ社会に属する他のヒトに対して、偏見に基づく差別的言動や純粋な悪意に基づく行動によって危害をもたらす可能性があります。
またヒトはどれほど善く生きようとしても、税金を払うことで畜産を間接的に支援することになってしまう社会の仕組みや、加担することを避けられない環境破壊などを通して、ヒト以外の動物にも危害をもたらすことになる可能性があります。
無生殖主義と混同されがちなもの

死亡促進主義
(プロモータリズム/pro-mortalism)
無生殖主義が禁じるのは、苦感能力を持つものを、すでに存在する我々が作ることです。
我々が自殺をすべきか否かということは、無生殖主義には関係ありません。

ヒト だけに適用されるタイプの「反出生主義」
ヒトが倫理的配慮に値し、したがって無生殖主義の適用対象になる理由は、ヒトがヒトという生物種に属すことではなく、ヒトが苦感能力を持つことです。
ヒトと同様に苦感能力を持つものにも無生殖主義を適用しなければ、それは論理的な一貫性を欠く種差別主義的な態度になってしまいます。

自分が作られたことの個人的な嘆き
無生殖主義は倫理学上の立場の一つであり、我々行為者が何をするべきなのか(または何をするべきでないのか)にかかわるものです。
無生殖主義は、無生殖主義者自身が作られたことに関する「生まれてこなければよかった」などという個人的な嘆きではありません。
多大な苦痛を経験して自身の誕生を嘆くようになった者は、確かに無生殖主義の正当性に気付きやすい立場に置かれます。
そのため、無生殖主義者の大半が比較的不幸な人々であったとしても、驚くべきことではないでしょう。
しかしそれは、例えば人種差別の被害者が人種差別主義の誤りに気付きやすいのと同じで、その立場自体の正当性には何の関係もありません。

絶滅促進主義
(pro-extinctionism)
無生殖主義は、苦感能力を持つものを作ってはならないとする立場です。
苦感能力を持つものは一般的には生命体であると考えられており、新たな生命体が作られなくなれば、その生物種の絶滅が自然な結果ではあります。
しかし無生殖主義それ自体は、我々が生物種の絶滅を目指すべきかどうかについては何も言いません。
無生殖主義へのよくある反論と返答
無生殖主義が倫理的な誤りとみなすものは苦感能力を持つものを作ることであり、その手段は問われません。
クローン技術など、生殖以外の方法で苦感能力を持つものを作ることも想定可能ではありますが、以下の反論・返答集では便宜上、どのような手段であっても苦感能力を持つものを作る行為を「生殖」と呼ぶことにします。

生殖は合法だから、無生殖主義は間違いだ。
法令は大規模に実践される応用倫理の一形態であり、倫理的に正しいことを実現するために用いられる道具でしかありません。
したがって法令は、ある行為が本当に正しいかどうかを決める力を持っていません。
性差別も人種差別も合法だった時代がありますが、それが実は倫理的に誤っていると広く合意されるから法令が改正されているのです。
倫理は常に法に先立ちます。

ヒトを作るのも作らないのも個人の自由だ。指図するな。
ある行為を「個人の自由」と呼べるのは、その行為によって悪影響を被る者がいない時だけです。
生殖は、生涯で起こる全てのことの最も根本的な原因(=その者の存在)を作るという、非常に大きな悪影響を被生殖者にもたらします。
明らかに、これは「個人の自由」ではありません。

動物製品を買うのも買わないのも個人の自由だ。指図するな。
ある行為を「個人の自由」と呼べるのは、その行為によって悪影響を被る者がいない時だけです。
動物製品に金を払うことは、苦痛を感じる能力を持つ動物を繁殖させてその存在を開始し、理想からは程遠い環境で生きることを強制し、苦痛に満ちた生涯を苦痛に満ちた方法で終わらせるという暴力を、業者に依頼して自分の代わりに行使してもらうということです。
明らかに、これは「個人の自由」ではありません。

ヒトや動物には生まれる権利がある。無生殖主義はその権利の侵害だ。
生まれていないヒトや動物は、存在しないため「権利」を持つことはできず、したがって権利を侵害されることはあり得ません。
すでに存在して苦感能力を持ってしまった者だけが権利を持ち、それゆえに権利を侵害されるリス クに晒されるのです。

ヒトや動物は、生まれてくれば幸せな生涯を送れるかも知れない。無生殖主義はそのチャンスを奪っている。
無生殖主義が誰からチャンスを奪っているのでしょう?
生まれていないヒトや動物は、文字通り存在しないのですから、チャンスを奪われるということがそもそもできません。
また、幸せな生涯を送らせるためにヒトや動物を作っても、それが成功するとは限りません。
成功しなかった場合、生まれた者は被害を受けます。
成功した場合、その者を作ったことは結果的に悪くなかったことにはなっても、これは「崖の上から石を落としたけれど誰にも当たらなかったから悪くなかった」と同じ意味の「悪くなかった」です。
その者を作るというギャンブルが善くないものだったことは、結果がどのようなものであっても否定されません。

あなたの人生が特別悪いだけで、生まれた者は一般的に いい人生を送れる。だから生殖は倫理的に誤りだとは言えない。
多大な苦痛を経験して自身の誕生を嘆くようになった者は、確かに無生殖主義の正当性に気付きやすい立場に置かれます。
しかしそれは、例えば人種差別の被害者が人種差別主義の誤りに気付きやすいのと同じで、その立場自体の正当性には何の関係もありません。
また、この反論の前提とされているように思われる「悪い人生を送る者を作ってしまうリスクを冒してでも、いい人生を送る者たちを作らねばならない(または作ることが許容される)」という考えは、多くの者の利益を理由として苦痛を感じ得る個人(または個体)のウェルビイングを不当に軽視する、功利主義的な誤りを犯しています。

「作る前に同意を取れない」というが、生まれていない者から同意を得るのは不可能だ。
ある行為に及ぶ前に、その行為の影響を受けるであろう者からの同意を取ることが実際に可能なのかどうかは、同意を取る必要の有無とは無関係です。
「同意を取ることができな い」が「同意を取る必要がない」を意味するのならば、例えば酒に酔って会話ができない状態の人と合意のない性行為に及ぶことも正当化できることになってしまいます。

「作る前に同意を取れない」というが、作らないことの同意だって取れないじゃないか。
他者を作ってしまった場合、その者は同意なしに作られるという危害を受けたことになります。
しかし他者を作らなかった場合、作られなかったその者は存在しないのですから、同意なしに何かをされて困るということが原理上あり得ません。

私は生まれてきてよかったと思う。自分の子孫にも同じ贈り物をするのはいいことだ。
あなたの子孫はあなたではありません。
彼らはそれぞれ独立した個人であり、個々の人生においてあなたと同様の経験をするとは限りません。
また、たとえあなたの子孫があ なたと同様の経験をするのだとしても、その経験からどれほどの苦痛や快楽を感じるかは個人によって異なります。
あなたがご自身の人生の質をどれほど高く評価しようとも、それは新たなヒトを作ることの危険性を否定する材料にはなりません。

生殖は生物として自然なことだ。
確かに、欲望に従って生殖するのは生物として自然なことです。
しかし、生物として自然であることが「倫理的に正しい」ことを意味するのならば、殺人・暴行・強姦のように明らかに非倫理的とされる行為も、同様に正しいこととされなければなりません。
「自然」と「正しい」は同義ではありません。

人生には確かに苦痛もあるが、苦痛のおかげで成長できる。
すでに存在するヒトや動物が相手ならば、成長のために苦痛をもたらすことが正当 化されるかどうかについて議論の余地があります(例えば、子供を学校に通わせて苦労させることは、将来その子が困らないようにするための有効で倫理的に許容される手段として、広く受け入れられています)。
しかし存在しない者が相手ならば、その者は今存在していないのですから、成長を必要としていないことは間違いありません。
我々が彼らを作り出してから初めて、彼らは成長を必要とする立場に置かれるのです。
なかった欲求をわざわざ作り出してそれを満たすための苦痛を経験させることは、明らかに非合理的であり、生殖を正当化する理由をここに見出すことはできません。

人生には確かに苦痛もあるが、苦痛のおかげで快楽が素晴らしいものになるのだ。
それは苦痛を感じ得るものを新たに作ることが許容される理由にはなりません。
作られる者は、快楽を素晴らしいものにする苦痛だけではなく、その目的に全く役立たない苦痛も経験することになるでしょう。
もし幸運なことにそのような「無駄」な苦痛を経験せずに済むのだとしても、その者は作られなければ快楽を経験する必要がないのですから、その者にとっての快楽をより素晴らしいものにするためにその者を作るというのは全く非合理的な話です。

私はもう生殖してしまったから、無生殖主義者にはなれない。
無生殖主義に限らずあらゆる倫理学上の立場について同じことが言えますが、「**主義をそれまで支持・実践できていなかったから私は**主義者失格だ」と実践を“諦める”ふりをすることは、変化を拒絶するための極めて不誠実で悪質な方法であり、交通事故を一度起こしてしまった人が「もう自分は安全運転する資格はない」と言って危険運転をするのと同質の誤りです。
過去に戻って歴史を書き換える手段が開発されない限り、我々にできるのは未来をより良いものにすることだけです。
性差別と闘う活動家の中には以前は性差別をする側だったという人がいるでしょうし、ヴィーガニズムの活動家の中には動物性食品で自らの身体を維持してきた過去を恥じながら活動している人もいるでしょう。
しかしどのような過去があっても、今の彼らが偽物の反差別主義者や偽物のヴィーガンだということにはなりません。
無生殖主義についても同じことが言えます。

私はこれまでヴィーガンではなかったから、無生殖主義者にはなれない。
無生殖主義に限らずあらゆる倫理学上の立場について同じことが言えますが、「**主義をそれまで支持・実践できていなかったから私は**主義者失格だ」と実践を“諦める”ふりをすることは、変化を拒絶するための極めて不誠実で悪質な方法であり、交通事故を一度起こしてしまった人が「もう自分は安全運転する資格はない」と言って危険運転をするのと同質の誤りです。
過去に戻って歴史を書き換える手段が開発されない限り、我々にできるのは未来をより良いものにすることだけです。
性差別と闘う活動家の中には以前は性差別をする側だったという人がいるでしょうし、ヴィーガニズムの活動家の中には動物性食品で自らの身体を維持してきた過去を恥じながら活動している人もいるでしょう。
しかしどのような過去があっても、今の彼らが偽物の反差別主義者や偽物のヴィーガンだということにはなりません。
無生殖主義についても同じことが言えます。
無生殖主義の実践の仕方
無生殖主義の実践は2本の柱で成り立ちます。
一つはヒトを作らないこと、もう一つはヴィーガンになることです。


























